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HIKE JOURNAL VOL.108


数年前に観たとある映画の中、主人公のシンガーソングライターとその仕事のパートナーの音楽プロデューサーが道端で何気ない会話をする一幕があり、“自分のiPodのプレイリストを見られるのは恥ずかしい。自分が今どんな趣味を持っていて、どんな心境なのかが一目でバレてしまうから。”と主人公が恥ずかしそうに話しながら、自分のプレイリストの中からお気に入りの曲を流すというシーンがありました。特にストーリーを進める中で重要ではなかったそのシーンを、数年たった今でもふと思い出すことがあるのですが、このシーンでのプレイリストがそうであるように、パーソナリティが色濃く表れてしまうからこそ誰かに見せることに気恥ずかしさを覚えるものが、きっと誰しもにあるのではないでしょうか。人に見せるためにリストアップしたり蒐集したりするものではない、自分のためだけのラインナップ——物質性を伴うものであればそれはレコードやCDのコレクション、あるいは日々読み溜めた本を並べた本棚。

クラウドやアプリケーションの中に作られたプレイリストなどと比べ、私たちの目に現実に見ることができる本棚は、小さくても大きくても、棚というスペースに限りがあること、そして本以外のものを並べることもできるということが、持ち主のパーソナリティをより一層反映しやすいものにしています。まるでその人の分身のごとく、ありありと“いまの自分”を映し出す存在です。小さな本棚いっぱいに本を詰め込む人。壁いっぱいの本棚にこれまで手にしてきた本を全て並べきっている人。ちょうど自分の細胞が新陳代謝するように手元にある本を少しずつ手放しながら新しいものを手にし、本棚にあいたスペースにはお気に入りのオブジェを置いたり、大切な人から受け取った絵葉書をこっそりと隙間に忍び込ませたりする人。本棚に並んだ本それ自体を見るだけで持ち主の頭の中や感性が見えてきてしまうものですが、それと同じように、本棚に作り出された余白にさえも、その人のらしさが映し出されているのです。

そんなところまで目に見えてしまうから、自分の本棚を人に見られることに対してはおそらく誰しもがちょっとした気恥ずかしさを持ち、できれば他人に見られたくないと思うものです。そうは言っても人に見せるために取り繕うものでもありません。自分でもときに目を背けたくなってしまうけれど、改めてきちんと向き合ってみると昔読んだ本に思わぬ新しさを見出したりもするものです。身体の延長のような本棚だからこその愛着、自分自身のかけらを並べていく楽しさと、それを眺めたときの恥じらいを伴った安堵感。それはクラウド上に保管するような架空のストックルームや棚にはない、特別な価値の一つではないでしょうか。




テキスト / 守屋 / @yukina.moriya

FROM HIKE

JOURNAL ON 26TH SEP 2021

書棚と自分