JOURNALNews, Feature, Our Neighborhood And more

HIKE JOURNAL VOL.118


家は、そこに住まう人の個性がその空間に配されることによって唯一無二の住処となり、家主の日常を支え私性を守る場所となります。それが家というものの大きな役割である一方で、家という場所はそこに人が集ってこそ、その場所の意味をより強くさせ機能を最大限に発揮するもののように思います。 『「他」からの活力を得て、私という輪郭が鍛えられ新しい自分の輪郭として立ち現れてくること。それははじめおぼろげかもしれないが、いつしかゆっくりと時を加えていくことによって、自分自身の内側にもまた他者にも確固としたものと認められるまでになるのだ。』*とは芸術家の矢萩喜従郎のことばですが、それと同じように家も、多くの人が行き来し集うことで、そんな他者の活力による刺激を受け、そのあるべき姿を強固なものにしていくのだと考えることができます。家も、そしてそこに住まう人も同じく日々を生き、空気を吸い、それを循環させ、季節を廻っていくのです。

そういう考えのもとで話を進めるならば、自宅へは出来るだけ多くの仲間を招くべきと言ってもよいでしょう。それはきっと、私たち自身にとっても、そして家にとっても非常に重要な意味を持ち得るはずです。そしてそのとき家主である私たちは、おそらくできる限りを尽くしてゲストをもてなしたいと考えます。例えば、普段よりはほんの少しだけ丁寧にリビングのラグを掃除したり、毎日当たり前に使うダイニングテーブルにはぴしりとアイロンをかけたテーブルクロスを敷いたりするそれらの行為は、日常とはささやかに距離を置きながらも来客を待ちわびる気持ちや嬉しさの表れであり、もてなしの気持ちに他なりません。ただ、その気持ちの高まりによって非日常的な演出がなされたり、生活を着飾るようなことをしてゲストを緊張させたりすることになっては、せっかくのもてなしの気持ちは台無しです。自分自身の日常を支える家という場所で皆が愉しくリラックスして過ごしてもらうために、その等身大の日常の一部を共有することを通して、誰もが平等に与えられたその時間を心から楽しめるように心を配ってみませんか。

リビングではごろりと皆が寝転がって談笑し、料理が出来上がったらとりとめのない話をしながら出来立ての一皿を全員で分かち合って、そうかと思えばそのうち誰かはソファでうたた寝を始めるような、あたかも皆が自分の家で過ごしているのと同様の安心感とあたたかさが満ちる、どこまでも日常に近いひととき。その時間にこそ、もてなすということの本質が映し出されているようです。 もてなし上手の家には、多くの人が集います。そんな家は、住まう人の気が通った家であるのは当然で、さらに言うならばその家の輪郭ははっきりと確かなものであるはずです。

人々が集い、彼らをもてなすその時間とは、毎日続く日常のはざまに打たれるひとつの楔のようなもので、連続の中にありながらもそこには確かな重さと意味があります。そしてそれがあってこそ、家は家としてたくさんのエネルギーを得て、その家らしく、家主とともに育っていくものなのだと思います。

* 『IDEA』1996年11月号 p.20 「特集:矢萩喜従郎の視点」より




テキスト / 守屋 / @yukina.moriya

FROM HIKE

JOURNAL ON 29th April 2022

育つ家